一番最近の表記は「ぶかっこう」。少し前まではどの研究本にも「ぶっ法そう=ぶっぽうそう」と書かれていたが。崩し字というのは、後の世の人間にとっては大変難解なものであるらしい。「ぬらりひょん」「おとろし」然り。
仏法僧とは三宝と言って、仏教で大切にしなくてはいけない三つの宝、すなわち仏、法(仏の教え)、僧(教えを学び伝える人)のことを指す。基本的にはありがたい言葉で妖怪に仕立てようとするなら非常に皮肉なモノの見方が必要だろう。
鳴き声が「ブッポーソー」と聞こえることから「ブッポウソウ」と名付けられた鳥がいる(図の妖怪の首に止まっている鳥)。光沢をもつきれいな鳥だ。この絵を描きはじめた時には私もこの妖怪を「ぶっぽうそう」だと思っていた。制作中に「ぶかっこう」という表記が現れたのだ。
「ぶかっこう」なら、確かにこの妖怪にはその資格がある。大きい頭には釣り合わない蛇のような細い胴体、垂れ下がった舌と目の下。不格好そのままだ。そんなことを考えているうちに閃くものがあった。
カッコウという鳥は托卵と言って、ほかの鳥に自分のひなの世話をさせる。他人の子を預けられた鳥は最初は自分の子だと思って育てるのだが子供はだんだん大きく膨らみ、育ての親鳥よりも大きな別の鳥になって巣立っていく。
こちらも「ぶっぽうそう」だと思って描いていたものが、描きあがるころには、「ぶかっこう」になっていた。なんという偶然。そこでカッコウの羽根を描いた。月に見えるがカッコウの卵も描いた。
よく考えると「仏法僧」にだってそれは言える。有難いと思って社会が育てた釈迦の教えは1000年、2000年経つうちに仏教とは似て非なる不格好な教えになってはいないか?(仏教だけに限った話ではないが)
つまり、ぶっぽうそうでもぶかっこうでも、本質は同じ妖怪だったのだ。
図:尾田郷澄作『百鬼夜行絵巻』より