鳥山石燕の百鬼徒然袋に描かれる。五徳(ガスコンロの鍋を乗せるあの部分)を角のように頭に乗せ、火吹き竹を持って囲炉裏の火を起こす化け猫(ただし、言われないと猫には見えない)。解説は「七徳の舞を二つ忘れて「五徳の官者」と呼ばれた話(徒然草の信濃前司行長のエピソード)もあるので、この猫も何かを忘れたのかなとぼんやり思った」だそうである。
七徳とは、武力行使を禁じ、武器をしまい、大国を保全し、君主の功業を固め、人民の生活を安定させ、大衆を仲良くさせ、経済を繁栄させること、だそうである。
猫が、この内の五徳も持っているなら、大したものであるが、そもそも、「五徳」の語源は「コ(炉、火)+ トク/トコ(床)」あるいは「クトコ(火所)で、「五徳」は当て字らしい。
以上は全てネット情報である。便利な時代になったものだ。
しかし、何で五徳+猫なのか、判らない。猫と言えば、石燕が見本にしたという百鬼夜行絵巻の怪物は猫には見えない。哺乳類であることが辛うじて判る。目は三つある。
仏教用語には三徳と言う物もあり、五徳より二徳もすくないが、有りがたそうだ。
徳は、「徳を積む」と言うように、先天的なものではなく、獲得的なものであり、ヒトですら全ての徳を手に入れることは難しい。まして動物はそもそも徳など積まない(はずだ)から、猫が年を経、化けるに辺り、五つまでも徳を獲得出来た、と言う話か。だから、生き物が恐れる「火」を起こすことが出来るようになったのだろうか。猫は確かに、ヒトに一番近いところにいる生き物だから、年を経れば、そこいらの人間よりは話の判る、徳の高い化け猫になれる、そう言う訳だろうか。ただし、徳が足らないので火を燃え上がらせるだけ燃え上がらせておいて、後始末はしないのかもしれない。今ならネットの世界に山ほど棲んでそうな猫である。
この絵では誇張を効かせ、火を起こす連想で毛の焼けた黒猫にしたら、西洋画の悪魔のようになった。地獄の業火に焼かれる、と言うフレーズを連想してしまった。正直、悪徳以外の徳は欠片も見当たらない。絵は鏡。描き手の徳の低さを露呈する仕上がりになってしまった。