古今妖怪図鑑

妖怪しか描かず、妖怪を哲学する、妖怪画家のブログ。妖怪しか描きませんし、妖怪の事しか書きません。

135 #五徳猫

鳥山石燕の百鬼徒然袋に描かれる。五徳(ガスコンロの鍋を乗せるあの部分)を角のように頭に乗せ、火吹き竹を持って囲炉裏の火を起こす化け猫(ただし、言われないと猫には見えない)。解説は「七徳の舞を二つ忘れて「五徳の官者」と呼ばれた話(徒然草信濃前司行長のエピソード)もあるので、この猫も何かを忘れたのかなとぼんやり思った」だそうである。

 七徳とは、武力行使を禁じ、武器をしまい、大国を保全し、君主の功業を固め、人民の生活を安定させ、大衆を仲良くさせ、経済を繁栄させること、だそうである。

  猫が、この内の五徳も持っているなら、大したものであるが、そもそも、「五徳」の語源は「コ(炉、火)+ トク/トコ(床)」あるいは「クトコ(火所)で、「五徳」は当て字らしい。

 以上は全てネット情報である。便利な時代になったものだ。

 しかし、何で五徳+猫なのか、判らない。猫と言えば、石燕が見本にしたという百鬼夜行絵巻の怪物は猫には見えない。哺乳類であることが辛うじて判る。目は三つある。

仏教用語には三徳と言う物もあり、五徳より二徳もすくないが、有りがたそうだ。

 徳は、「徳を積む」と言うように、先天的なものではなく、獲得的なものであり、ヒトですら全ての徳を手に入れることは難しい。まして動物はそもそも徳など積まない(はずだ)から、猫が年を経、化けるに辺り、五つまでも徳を獲得出来た、と言う話か。だから、生き物が恐れる「火」を起こすことが出来るようになったのだろうか。猫は確かに、ヒトに一番近いところにいる生き物だから、年を経れば、そこいらの人間よりは話の判る、徳の高い化け猫になれる、そう言う訳だろうか。

 この絵では誇張を効かせ、火を起こす連想で毛の焼けた黒猫にしたら、西洋画の悪魔のようになった。地獄の業火に焼かれる、と言うフレーズを連想してしまった。正直、悪徳以外の徳は欠片も見当たらない。絵は鏡。描き手の徳の低さを露呈する仕上がりになってしまった。

 

134 #舞い首

神奈川は舞鶴の伝承。Wikipediaによると、鎌倉時代、小三太、又重、悪五郎という3人の武士が祭の日、酒の勢いで口論となり、刀の斬り合いとなり、お互いに頸をはねあい、海に落ちた。以来この海では3人の首が食い争い、夜には火炎を吹き、昼には海上に巴模様の波を起こした。淵は巴が淵と名づけられた

また別の話では、3人は博打勝負で捕らえられて、死罪となり、海に流された3人の首が口から火を吹きながら互いを罵り合っているそうである。

三つ巴、と言う図式が面白い。二つの頸ではいずれ決着が着いてしまう。三人が仲が悪い場合、協力はあり得ないので、常に二人が戦い、裏で一人が体力を回復でき、永久機関のように喧嘩を続けられるのだろうか。

三竦み、と言う言葉もある。ABCの三名が睨み合うが、各人一方には勝つが他方には負ける。この関係があるが上に、一人を倒すと、自分では勝てない相手との一対一になるため、動きがとれず、睨み合いが続く。

三元論とでも言うのか、物事を三つの要素で捉える考え方がある。行政立法司法、家計企業政府、天地人、大中小、雪月花等である。三者は並立の関係にあり、バランスが取れている。

かの三国志諸葛亮の「天下三分の計」により、誰が天下を取るでもない時代が出来上がる話である。(流石に繁忙か)

三人の争いは、終わることがない。無限であり、故に秩序でもある。そして争いの絶えない世の中の縮図でもあるかもしれない。そんな啓示を与えてくれる妖怪だろうか。

 

133 #於菊虫

有名な国民の怪談、「番町皿屋敷」のスピンオフのような妖怪。

実在する、ジャコウアゲハの蛹がそうである、と言われている。

日本中に伝わる「お菊伝説」。家宝の皿を割ってしまった女中のお菊は、手打ちにあって屋敷の井戸に投げ込まれる。全国に似た話があり、ここに至るまでは色々なバリエーションがあるが、井戸に投げ込まれる所で話が揃う。

後は井戸からお菊の霊が出現し、皿を数えては泣き崩れる、と言う有名な場面が毎晩の如くに繰り返される。

お菊伝説は、江戸の番町皿屋敷、姫路の播州皿屋敷を筆頭に、Wikipediaによると、(以下引用)…北は岩手県滝沢市江刺市、南は鹿児島県南さつま市まで…そのほか、群馬県甘楽郡の2町1村、滋賀県彦根市島根県松江市兵庫県尼崎市高知県幡多郡の2町1村、福岡県嘉麻市宮城県亘理郡長崎県五島列島福江島などに伝わっている。

割れ残った皿の数(17件×9枚=153枚)で15名ほどのお菊さんが成仏できる計算だ。

既に「お菊」は固有名詞ではなく、妖怪としての普通名詞になっている。鳥山石燕は、それを意識したのか、この怪異をまとめて「皿数え」と呼んでいる。

さて、お菊虫の話である。

尼崎や姫路のお菊さんの話に登場し、人が縄で縛られたような奇怪な姿をしているが、ジャコウアゲハに限らず、蝶の蛹はだいたいそんな姿をしている。このお菊虫が、お菊の遺骸が放り込まれた井戸に、たくさん貼り付いていたと言う。

ヘイケガニと似たところがある。

ジャコウアゲハの蛹は、写真で見てもなかなか迫力のあるものだ。縛られた人の姿と言うよりは、幽霊そのものに見え、伝説になりそうな色と形をしている。しかも纏まった数で群れてサナギになるので、見つけてしまったら声くらい出てしまうかもしれない。

姫路城ではかつて、蝶のサナギ(ジャコウアゲハに限らなかったらしい)の干物を「お菊虫」として土産に売っていたらしい。妖怪すらもお土産に。関西人の商魂は凄まじい。

 

欠けた月は割れた皿の隠喩。

皿の絵は適当に描いてしまった。

ジャコウアゲハに寄せて描いているのは、お分かり頂けると思う。

 

 

 

132 #高女

 

鳥山石燕画図百鬼夜行シリーズに姿がある妖怪。これといった解説もなく、結び付くような伝承も少ない。遊廓に関する寓意画であるとする分析もあるが、この説を採ると沢山の妖怪が遊廓に絡んでいて、フロイトじゃないんだから、と正直思う。戦後には、何名かの妖怪図鑑作家の手によって「醜い娘が成ったものであり、嫉妬深く、体を伸ばして遊廓の二階などを覗く」と言う話が作られたようだ。

せっかくだから、私も先人に習い、この妖怪を今風に「見顕す」ことにしよう。

見たまんま、高みより見下ろす=マウントを取りたがる妖怪である。自分の属する共同体で、マウントを取ることに執心する人には、この妖怪が憑いていると言う。

高年収のハイスペックなパートナーと結婚し、ブランド品を身に纏い、その事を職場の周囲にアピールすることに余念がない。そうして精神的な高みから周囲を見下す事に快感を感じる。彼女にとっては身の回りの全てが自慢とその承認のためにある。自分よりも上位にある人間を見つけると、更に背伸びをし、借金をしてでも自分の価値を上げにいく。それでも届かないときは…。相手の方を引きずり落としにかかる。

程度のさはあれ、しばしば見かけるタイプ。間違いなく現代妖怪だ。

富士山を見下ろすように描いた。

着ているものは紺の絞り染め。高級品だ。

燕も足元に及ばない。

でも、さらに頭上には桜の木があり、花びらを降らせている事に、彼女は気付かない。

そんな絵である。

 

因みに、ふじ、さくら、つばめは、歴代の特急列車の名前でもある。遊びです。

131 #垢舐め

江戸時代元禄期辺りから描かれたり語られたりしたらしい妖怪。姿に多少の違いはあるが、風呂場に現れ、垢を舐めて食べる。

率直に言って、気持ち悪い。

江戸の町は享保期には百万人規模だった。公衆衛生は不十分で、大通りは下水の匂いが酷かった、なんて話も聞く。家に風呂がない町人も多く、したがって銭湯を利用していた。なかには汚い風呂屋もあっただろう。そう言う時代背景のなかで必然的に誕生した妖怪なのだろう。「あそこの銭湯は、垢舐めでも出そうなくらいだ」などと言う風に。

今だって、不潔な場所には「いろんな菌が発生するから危険だ」などと言われ、我々は、その目に見えない菌に怯え、避けようとする。その感覚とこの妖怪は無縁ではない。

垢は、一見清潔に見える浴室の、足元、物陰など目につかない場所に溜まっていくものだ。人が使う以上、完全に清潔な空間はあり得ない。垢は、言うなれば必ず存在するバグのようなものだ。古今東西を問わない。

今までも妖怪の絵に、時々現代の意匠を加えてきた。今にも生きる妖怪画を描きたいからだ。汚れた浴室の気持ち悪さはそっくり現代に持ってこれる、と思って描いた絵である。

 

 

130 #死神

桃仙人夜話「絵本百物語」に紹介される怪。

死んだ者の悪念が死んだ場所などに留まり、生者を引っ張り、同じような死に方をさせる。

つまり現在でもよくある怪談の先駆け的な存在。縊鬼や七人ミサキと同類の怪異だ。

「絵本百物語」の挿絵では、軒の下に人を誘っているような姿で描かれている。「軒の下で首を吊る」イメージを意識していると思われる。

 

スポーツ競技の世界では、世界新記録が出ると、今までの記録を上回る結果を出す選手が急に増えると言う。人間、誰かが何かを為すと、「それが出来る」ことを知った他者は、それだけでその行為に対するプレッシャーが弱まり、実行率が上がり、同じように成功する者が増えるそうだ。

犯罪や自殺に於いても同様の事実が認められる。

何度も事件の起きる物件がある。

話題性の有る事件には、模倣犯が必ず現れる。

日本各地に自殺の名所がある。

死神の仕業かどうかは置いておいて、「死神現象」は、世界の法則の一つであるようだ。

死神、と言えば落語の世界でも有名だ。命を火の灯ったローソクで表現する世界観はとても面白い。画面をローソクで埋め尽くすアイデアもあったが、あまり描き込みたくない性格なので、「一、二、三、死」と洒落にした。

 

129 #川獺 かわうそ

子供の姿に化けて、酒を買いに来る妖怪。

今なら即NGである。現在は、逆に、子供が大人のふりをして酒を買いに来る時代だ。

 

舌が短く、言葉は上手に話せない。

「俺だ」と言えずに「あわや」とか「うわや」と言う。「どこから来た」と聞かれると、「かわい」と答えると言う。

以上の事は、水木しげるの著作で読んだ。

 

思うに、かわうそ自身は、普通の人間に化けたつもりで、ただ、狸や狐ほどには化け方が上手くなかったため、図らずも子供サイズになってしまった、ということかもしれない。自分が上手く化けられていない自覚がない。その不自然さがこの妖怪の怪しさなのかもしれない。AI画像の、不気味の谷にも通じる怖さだ。

彼は今日も酒を買いに来る。昨日はうまく行ったから、今日も売って貰えるぞ。と、疑いも持たずにやって来る。

しかし、柳の下に二匹目の泥鰌は居ないかもしれない。

と言う絵である。