古今妖怪図鑑

妖怪しか描かず、妖怪を哲学する、妖怪画家のブログ。妖怪しか描きませんし、妖怪の事しか書きません。

180 #ざしきわらし

説明が不要なくらい有名な妖怪だが、説明し出すといくら書いてもページが足らない存在。

日本では東北地方を中心に類似の伝承が散らばっているし、西洋の妖精の伝承にも似たものがある。つまり、古い住居には何かしらが宿り、それはしばしば子供の姿として認知される。住人に対して援助をしたり、悪戯をしたりする、と言う伝承だ。家に人以外の存在が宿るイメージは世界中にある。人類の根元的な感覚なのだろうか。

家は、確かに「住人がいるモノ」で、住人であるからには家がある。家がなくては、そこに留まれない。「神棚」「祠」「神社」は神様の居場所だし、仏壇だって我々はそういう感覚で接しがちである。空き家に入る際も、つい「お邪魔します」と言ってしまった経験はないだろうか。そういった感覚のなかに、座敷わらしも居るのだと思う。その延長線上には、トイレの花子さんが居る。

そう考えると座敷わらしとは、家の魂、家の化身なのかもしれない。座敷わらしが出ていくとその家は廃れると広く言われる。座敷わらしが家を富ませていたと言うより、家の魂が去ってしまった、つまり家が死んだと言うことではないだろうか。

座敷わらしは、吉事の予兆には白い服、凶事の前兆には赤い服で現れると言う。リバーシブルの半纏にしておいた。差し当たりの出番がないので退屈している姿である。現代風に、下にシャツを着ているのが見えている。

鞠に興じているのは、やはり座敷に出そうな「小袖の手」。座敷わらしの一つの姿である「細手長手」と近い姿なので関連があるかもと思い一緒に描いた。

オオスカシバは蝶の一種。秋田、岩手県が北限である。特徴的な外見とは裏腹に、座敷わらしとの関連はおろか、何の伝承も持たない珍しい虫だ。個人的に親近感のある虫なので蝶の替わりに描いた。夏に良く飛んでいるので麗らかさを感じる。

 

179 #鵺(ぬえ)

話題には事欠かない、有名な妖怪だと思う。殆どは「声の怪」で、曇天の上空から大変不吉な声で鳴く。この声が「鵺」、今で言うところのトラツグミと似ているので、「鵺の化物」または「鵺」と呼ばれるに至る。じゃあトラツグミはどんな声で鳴くんだ、と言うと、夜の公園でひとつだけ揺れているブランコのような音、と言う声である。

姿を見せることは少ないものの、討ち取られたり捕らえられたりした際には、異形の姿を見せる。一言では言い表しにくい形態であるのは確かで、古人たちは筆を尽くしてこの「声の主」を描写した。曰く「猿の顔、狸の胴体、虎の四肢、蛇の尾」胴が虎であることもある。また曰く「頭は猿、背は虎、尾は狐、足は狸、音は鵺」さらに曰く「頭が猫、身体は鶏、尾が蛇、目が大きく光る怪鳥」…。どうも「何かに似ている感」は強いが、「何とも形容しがたい姿」なのだろう。

時代が進むにつれ、声の要素は次第に重要ではなくなり、その形容しがたい姿に人々は想像力を掻き立てられ、化成期には沢山の錦絵が描かれた。

しかし、鵺の不気味さは、どちらか一方だけでは完成しない。この姿にしてこの声、そのギャップがホラー映画のような不気味さを生んでいるのは間違いない。気味の悪い声の主を捕らえてみれば、そんな声では鳴かない筈の獣…。その違和感に鳥肌が立つのだろう。

鵺のような妖怪を描く楽しみは、「誰も描いたことがない解釈、デザインで描く」ことだろう。描くのも三、四回目だから、王道ではない鵺にした。猿はクモザル系にし、虎の四肢はホワイトタイガーに。蛇を尾にして頭を描かないのは若い頃からのポリシーである。蛇の頭を描いてある絵のほうがおかしいと思っている。たとえ鳥山石燕でもだ。

結果、わりと説得力のある姿に描けたように思う。ちなみに尻尾にとまっているのがトラツグミ。

 

 

178 #ぬっぺっぽう

 

姿だけが一人歩きしている妖怪の一人。鳥山石燕の画図百鬼夜行を始め、様々な妖怪絵巻にもその姿を見る事が出来る。

江戸城に現れた、「肉人」がそれであると言われたこともある。どう見ても無理があるが、のっぺらぼうと同一視された時もある。ぬっぺらぼうと呼ばれたことも、墓場をうろつく孤独な妖怪とされたこともある。

「肉」は不思議なものである。牛であれ豚であれなんであれ、「肉」と呼ばれるには「個」が失われなければならない。我々は肉を肉としてのみ認識し、決して「モー太郎の切り身」や、「豚美のフライ」として食すことは…ない。と思いたい。我々は「命を失った生命の筋組織を切り分けたもの」を「肉」と認識し、色やさしを誉めたり、食感を想像したり味わったりしている。

さて、ぬっぺっぽうは「肉の妖怪」である。牛でもなく人でもなく「肉」が化けたのだろう。具体的に見えて抽象的な妖怪である。目も鼻もない、(本当は目も鼻もないのだが、どの妖怪描きも大体目鼻口らしいものをほんのり、またはしっかり描いてしまう。それが悲しいかな、ヒトが人であるバランス感覚なのだろう…)のっぺらぼうの「肉」である、

肉は本質的に個性を失ったのっぺらぼうなので、偽の仮面を被せるのはたやすい。それは立派な食品偽装になるが、「松阪牛」や「神戸ビーフ」のラベルが張っていれば、味を疑う人は居ない。肉は現在進行形で「化け続けて」いるかも知れない。過去にもいくつも事件があった。

また、肉に似たキノコとして「エリンギ」が生み出されたのも一昔前になった。西洋の妖精譚だったか、キノコの輪の中に入ると   変身する…と言うのは伝説ではなく漫画だったか。

ブランド牛に引っ掛けて、御曹子、牛若丸の能面を持たせた。この面は偽物である。なぜなら能に「牛若丸の面」なんて存在しないから。能では、実在の人物は、面なしで演じるのだそうである。

素顔を失った肉は、既に妖怪なのかもしれない。我々はそんなものを日々、喰っている。

177 #骨女

骨男は居ないのに、である。そういうのは普通、「骸骨」と言われる。この怪では骨であり「女」であることか肝要なのだろう。

気に入った男性を誘惑する。その男性からは美女に見えると言う。はたから見ると、骸骨が着物を着ているように見える。

誘われた男性は、彼女と逢瀬を重ねるうち、生きるエネルギー、すなわち精気を吸い取られ、やがて死に至る。有名な怪談、牡丹灯籠にお馴染みの妖怪である。骨の身でありながら、肉の体に強く拘る辺りの意識と本質のずれが、妖怪的である。

妖怪はいつの時代も、だいたい男性の文化だった。だから、「美人だと思って付き合ったら××」なる怪異は多く生み出された。昼寝したら肥大化する、身体中を舐めてくる、後頭部に口があり大食い、振り向いたら爺、寝たらばばあ…。

そういう流れのひとつ、と捉えることも出来る。

日本に土葬の文化があったことも無視できない。死んだ肉体や骨でも、魂が入ると動く事が出来る。死に際して肉体を焼却する火葬の文化では起こりにくい怪異である。いずれにせよ、神道でも、仏教でもない死後の世界の感覚が日本に有った。中国の「聊斎志異」にもあるモチーフなので、儒教や道教と共に日本にいついたのだろう。たぶん詳しい方が居られると思う。

最近ショート動画でよく目にする、アメリカ(?)のゴスロリ肉食系女子をみて、妖怪みたいだと思って描いた。私の作品には珍しく、殆ど全裸の女性である。様々な資料を見て下書きを作ったが、正確には程遠い。

 

 

176 #雪女

日本を代表する妖怪の一人。最近は100体描く毎に行っている展覧会を意識して、スタンダードな日本の妖怪を、オーソドックスな型から少しだけ崩して、描いている。

先日も誤解されたので念のため書き記しておくが、アクリルガッシュを使って1から手描きしている肉筆画です。

雪女、雪女郎、雪女房など各地で若干呼び名は違えど、ほぼ同一の存在と見なされている。雪山に現れ、山中で夜を過ごそうとする旅人や猟師を襲い、凍死させる。 吹雪を起こしたり、雪崩を起こしたり、雪山で起きる災害はだいたいこの妖怪に起因するようである。姿を見せる場合は大概若い女性の姿をとる。雪ん子、雪男、雪爺は居るようだが、雪ばばあの話は聞かない。白粉ばばあという名称はある。

寝ている間の凍死という死に方が、この妖怪を女怪にしたのだろう。暴力的な死ではない。寝ている内に死ぬのであれば、雪女と添い寝したんじゃないの? と言う発想だろうか(民話では息を吹きかけてます)。西洋にも「鉄の処女に抱かれる」「マダム・ギロチーヌと接吻する」なんて言い方がある。

最近は、夏でもデパートや、電車のエアコンが寒い。凍死はないが、普通に風邪はひく。むしろ夏の方が防寒対策が弱い分、雪女を感じやすい。優しい寒さ。しかし体を蝕む。

雪女はあまりカラフルには描かれない。雪は白いから、色がない方が雪らしい。しかし「雪女」である。おしゃれの一つくらいしたいに違いない。

そう思って描いた。紋様は全て雪の結晶だ。

175 #海坊主

今年は台風が相次ぎ、毎日雨降りの盆やすみだ。海もよく荒れている。

…海坊主は島国日本を代表する妖怪。

海で起きる怪異の元締め的存在。小さなものから巨大なものまで、坊主頭だけのものから髪の有るものまで、その姿はバラエティーに富んでいる。行動の方は大体統一されていて、出現し、目撃され、船をひっくり返し、人を溺死させたり、食ったりする。

日本中の海の有るところの殆どに言い伝えがあるらしい。「湖坊主」が出る湖もあったから、水質は関係ないらしい。全ての水難事故の根元とされている。見た目も様々、似たような名前の妖怪も多い。坊主の癖に、髪を振り乱して現れた、なんて話も昔どこかで読んだ。

正体に関しては、クジラと言う説が強いし、私も概ね賛成している。ザトウクジラは、「海座頭」と言う海坊主の仲間とかなり特徴が似ている。全ての海坊主がクジラではないだろうが、目撃されている何割かはこれだと思う。…髪は振り乱さないが。

考えてみれば、海という広大な空間には何でも潜んでいる可能性がある。上下左右1キロ四方の生き物でも難なく存在できる。私は、船に乗る度に怖くなる。もし、甲板から海中を眺めているとき、例え一瞬でも、海の中の巨大な目玉と目が合ったら、生きている心地がしなくなる。もし海上にそびえ立つ、ビルくらいの巨大な頭を見てしまったら、死を覚悟する。だから、船に乗ると、逆に海面から目が離せない。怪異を見たい気持ちがいつも勝つが、この辺り天骨(ボーンアイデンティティ)かと思う。

有名になりすぎた水木しげるスタイルは避け、髪を振り乱し、笑っている姿を「お坊さんスタイル」で描いたのが、たぶん25年前。人生初の個展「現在妖怪事展」で世にだした。なぜか今でもネット上にイラストだけ漂っている。そのイメージをパワーアップさせて描いた。

174 #からかさ小僧

江戸時代に登場した。創作妖怪の草分けである。

お馴染みなのは一つ目、一本足の姿であるが、絵によっては、傘から2本の腕が伸びていることや、目が2つのこともあり、長い舌を伸ばしていることもある。2本足で描かれている例もある。(wikiより)

しかし、カルタなどの妖怪画グッズに描かれるのみで、活躍する怪談もないので、妖怪図鑑で紹介されることも少ない。皆、見たことがあるのに、どんな妖怪か誰も知らない。あるのは名前と、ビジュアルだけ。江戸時代はそういう妖怪を多数産み出した。

1980年代になり、今となっては良い想い出の「とんでも妖怪図鑑」によって、勝手な設定が追加された。曰く、毒針を持っている、目は2つある。毛が生えている。などなど。

最近は、付喪神の一種とされるようになったが、ビジュアルからの推測に過ぎない。傘のお化けであるから、急に動き始めて人を驚かす、くらいの悪戯しか思い付かない人が多いだろう。

鳥山石燕は傘の怪として「骨からかさ」なる妖怪を創作したが、何をする妖怪かは判らない。姿も鳥に似せてあり、からかさ小僧とは程遠い。

ここからは持論である。

傘は、人間を乗り物にして日本中を動き回っている。彼らは移動したくなると、雨を降らせるのだ。そして電車の中やコンビニの傘立てで、人間の記憶や感情を操り、他人に乗り換えるのだ。そういう生き物なのである。…くらいの解説がほしい。

皆が描かない、目が2つ、足が二本の姿に描いた。今はキャラクターが片目だったり片足だったりすると、さる筋から苦情が来るので、こういう姿が一般的になる日も来るかもしれないと、予言のつもりで描いた。悪のりして尻尾に毒針を着けた。

傘と言えば、海老市染の助染太郎師匠の芸を思いだし、独楽を手に遊ばせた。

前景の紫陽花が良く描けた。

 

173 #崇徳天皇の怨霊

日本三大怨霊の一人である。一人居ても結構なスキャンダルなのに、三人も大怨霊が居る国は如何なものだろう。因みに他の二人は菅原道真、平将門だそうである。そんな感じで選ぶなら、江戸時代まででも三人では済まない気もする。

日本三大妖怪の一人一人数えられることもある。

天皇を退位させられ、保元の乱には敗れ、四国に流罪となり、その後は度重なる屈辱の中、「日本を滅ぼす大怨霊になる」と発願し(舌を噛み切った血で文字にしたと言う説もある )、髪も爪も伸び放題で過ごして天狗になった、とか、死して魔王になった、などの伝説を残す。その後、敵対した貴族の相次ぐ病死、大極殿の火事などを起こし、その後も100年毎に日本に大災害を起こしている(没後100年には平家滅亡、200年には南北朝の動乱、300年で応仁の乱、400年には室町幕府滅亡、500年には明暦の大火、600で年には昭和事件?何だそれは、700年には幕末の動乱…。)と言う話もある。後白河天皇一族への恨みで良いはずが、日本国全体への敵意になっているところが恐ろしい。

さらにその後、明治天皇の代に和解し、白峯神社に祀られ、日本国を護る神となったという。

天皇が怨霊になる、と言うことのインパクトが、今よりはるかに強いのだろう。ちょうど、もと内閣総理大臣がゾンビになったみたいに。

平安貴族は歯を見せて怒りを表すそうなので、これ以上無いくらいに歯を剥いた。怒髪は天を突かせ、雷を巡らせた。服は描かず、紋だけ宙に描いた。雲の紋様は浮世絵から取り、波紋様のようにして「瀬をはやみ」の歌のイメージと重ねた。

爪は伸ばし、髪も乱し、舌を噛み切った。

 

 

172 #共潜き(ともかづき)

三重県の志伊勢志摩地方に伝わる、海の妖怪。海女達に恐れられていた。

海に潜ると「自分と同じ姿をした海女」が現れる。曇天の日に現れ、アワビなどを見せて近よって来るが、ついていくと命を落とす。出会った海女は暫くの間仕事を休むのだという。

潜水中の低体温や酸欠状態が生み出す幻覚だろうか。探せば類似の怪談が出てきそうである。言われて見れば、高山の登山中に幻覚を見たり、幻聴を聞いたりする話がある。海女などは重労働なので、幻覚が見えるくらいまで働いてしまったら、暫く海から離れて暮らせ、と言う先人の知恵だったのか。

そうならぱ、共潜きの被害は海女だけにとどまらない。海に長時間もぐるダイバーのすべてが、共潜りに襲われる可能性を持っている。

海女の姿で現れたのは、相手が海女だっただけの話。勿論本当は「近づいてきた人間と同じ姿に」化けるのだ。相手が海女だからアワビで誘うのであって、勿論「その人間が欲しがっているもの」で誘うのだ。その後は…。大して変わらない。遺体で発見される。または、助かった人間が「自分と瓜二つの人間をみた」と言う。

水着の模様は「海松紋様」数少ない海藻をモチーフにした紋様だ。腹部にエラを描き、幻覚ではない魔物感を出した。多分実際は、事故の原因は海藻やクラゲだろうかと思い、描いたが、良く思い出してみれば伊勢の海に昆布は生えないよな。

良く考える前に描いてしまう癖を何とかしないといけない。

 

 

 

 

171 #一つ目小僧とみかり婆さん

私は神奈川県に住んでいるが、この県は一つ目小僧の伝承の多い県であるらしい。

12月や2月の8日に川の向こう側や山から現れ、村の家々を訪ねてまわる。良くないものを運んでくることが多いので、村では「目籠」を掲げて追い払う。「目籠」とは目を荒く編んだ籠で、「目の数が多いから」一つ目小僧は退散すると言う。目の形は六芒星になり、西洋でも魔除けに使うから、何か通じるものを感じる。日本ではこの模様をを「籠目紋様」という。

神奈川県各地に、ちょっとずつ違う内容の伝承が残っている。ある地域では一つ目小僧は帳面を持っていて、ここに名前を書かれると良くないことが起こるなど言われる。

みかり婆さんは、単独で現れる場合もあるが、大概は一つ目小僧と連れだって現れる。こちらは団子を戸口に刺しておくと去っていく。

 日本人の、  来訪者に対する心情が良く表れている。基本的には関わりたくない。もてなす場合もあるが(これは外の者が新しい何かを村に与えてくれることを期待しての対応であり)、引き留めはしない。通り過ぎてもらう。それが村と言う孤立した社会を、運営していく人々の知恵であり、経験でもあったのだろう。

「たくさんの目を嫌う」ので、服の柄に目を連想するような「格子」の類いは避けた。縞模様を基調にしている。

「籠目紋様」を、装飾に描いた。目籠を描くのはやめにした。絵が図鑑みたいに、説明的になりすぎてしまう。