古今妖怪図鑑

妖怪しか描かず、妖怪を哲学する、妖怪画家のブログ。妖怪しか描きませんし、妖怪の事しか書きません。

128 #蛇骨婆

鳥山石燕が紹介していることで知られる妖怪の一つ。解説に「中国大陸の一地方に、右の手に青蛇、左の手に赤蛇を持つ人が居ると言うが、蛇骨婆はこの国の人だろうか。或いは、蛇塚の蛇五右衛門(じゃごえもん)と云う者の妻で、人呼んで「蛇五婆(じゃごばあ)」が訛った名前だと云う」と書いてあり…。

あまり説明にもなっていない。

青蛇、赤蛇を持ってるのは「中国の伝説の国の人」であって、蛇骨婆ではない。「同じだろうか」と言われているだけだ。

蛇五右衛門が何者なのかも明らかではない。

蛇骨婆が、何をする存在なのか、全く判らない。読み取れない。石燕妖怪あるあるで、もう慣れてしまったが、地方に伝説があるわけでもない。

 

蛇は、幾つかの怪談で「金銭欲の具現化」として登場する。元来「執念」を象徴する生き物だからであろうか。死んでもなお蛇と化して、生前貯めた金を守るという話が複数有る。金運の象徴という顔もあり、脱け殻を財布に入れるとお金がたまるとは今でも言われる…私は嫌だが。(代わりに、ガマの剥製を加工したガマ口を持っている。中国では三本足のガマが金運の象徴だ。これも、使っていないが)

昔話には良くケチな資産家の老人が登場する。年を取り、体力が落ち、頭もぼやけ、自分一人で出来る事の限界がどんどん狭くなる。そうなると頼りになるのはもはや金、と云う悲しい悟りがその裏にはある。そして彼らはがめつくなる。どんなに脳が老化しても「金が手元にあればなんとかなる」その執念だけが強力に生き続ける。思考も感情もぼやけて行き、ただ純化した執念が、遂に蛇になる。

そんな妖怪だったら、ケチを強調した絵にしてみよう、となった。(私の話)

石燕のイメージを下敷きに、山姥のようなボロボロのファッションはやめて、装いは裕福に改めた。でも髪はワイルド。かんざしはあるが、勿体ないので着けずに隠しているのだ。

わらじなど、減るものは履かない。裸足である。

爪に灯をともして、タバコを呑んでいる。良く考えたらタバコは浪費だが、金貸し(または商売人のボス)的な印象を着けたくて、咥えさせた。煙を蛇の舌に見立てた。

蛇五右衛門の妻かもしれないので、歯を染めた。

羽織の襟は「鱗紋」

着物の柄は、蛇の目に見立てた、銭の紋様。

背後には蛇塚を描き、銭の花を咲かせた。

むかし、歌手の戸川純が「金貸しババアはキンキラキン」みたいな歌を歌っていたな、と思い出しながら描いた。

 

127 #鍋島猫、または#グリマルキン

 

猫はどこにでも入り込む。そして、最初からそこが、自分の居場所であったかのように振る舞う。物語の中にあってもだ。

江戸時代成立期。

佐賀の国では龍造寺家が衰えていた。元家臣の鍋島家、隣国の有馬家の方が幕府からの信任も厚く、龍造寺家は名目上の藩主でありながら、幕府からは既に無視されていた。状況に絶望した龍造寺の一族は、あるものは狂い死にし、又あるものは病死したと言う。その後、鍋島家に何かあると、「龍造寺の呪い」と言われるようになった。龍造寺から実権を奪った鍋島直茂は81歳まで長生きしたが、耳に出来た腫瘍で亡くなったお陰で、呪いだと言われた。

幕末期には、これを題材にした怪談も姿を表した。こんな話だ。

2代藩主鍋島光茂は龍造寺又七郎と囲碁で遊んでいたが、又七郎が名人であったため連敗、激昂し又七郎を切り殺してしまう。知らせを受けた又七郎の母は恨み節を飼猫に語り自刃 。猫は、流れる老婆の血をなめ尽くすと、鍋島家に侵入。光茂の愛妾をくい殺し、彼女に化けて夜ごとに光茂を苦しめた…。

いつのまにか、話の中に猫が居る。

猫はどこから遣ってきたのか。

そもそも日本には、血を吸う妖怪は殆ど居ないようだ。猫が血を吸って人に化けるなんて日本の怪談でも珍しい。ひきがえるか、鼈が血を吸う話はあったが、血を吸って魔力を持ち、人に化る話は…多分、ない。

以下は勝手な妄想です。

鍋島家・龍造寺家のお家騒動は、江戸の初期、鎖国の始まる前。長崎では南蛮貿易の全盛期。そしてヨーロッパは…魔女裁判の全盛期。

長崎を中心に、九州には東南アジア経由でヨーロッパの物や文化が次々と上陸していた。例えば「尾曲り猫」。インドネシアが原産と言われる猫で、宣教師が日本に持ち込んだ。今では長崎県の猫の八割が尾曲り猫であるらしい。

そんな猫の一匹が、たまたま魔女の買っていた猫、または魔女そのもので、キリシタン大名の有馬氏を嫌い、佐賀の龍造寺家の飼い猫となり、飼い主の無念を晴らしに行く…。

そんな鍋島猫も、有って良いかもしれない。

 

魔女の飼い猫、魔女の化けた猫を西洋では

「グリマルキン」と言う。

魔女は九回まで猫に化けることが出来、化けた回数だけ尾が増えて行くと言う。

 

最初の絵の、背後をチェスにしたのは、画面にヨーロッパの雰囲気を出したく、囲碁と並ぶボードゲームと言えばチェスだった、事と、チェスのルール、形が今と変わらなくなったのも15世紀だったのと、ビショップ、が実は宣教師と言う意味を持つことと…色々です。

 

二つ目の絵は構図を同じくし、西洋の魔女は猫に化ける度に尾を増やすと言うので尾の数を増やし、鍋島家の家紋、「鍋島杏葉」を頑張って描き、家紋に因んで杏の盆栽を加えました。

 

 

126 #天狗

存在が大きすぎて、説明し尽くすには一冊以上の本がいる、鬼と並ぶ日本の?妖怪の最古残。ルーツをたどると中国まで行ってしまうかもしれないが、詳しくはない。

鬼が人にまつわる怪異の総称で、天狗は自然界のそれ、と理解していた時もあったが、そう簡単に割り切れるものでも無い感じがしている。しかし日本に於いては、「人に牙を剥く自然界の諸々の総称」としておけば、大体当てはまる。

野山で出会う様々の怪異、天狗倒し、天狗礫、天狗笑い、その名が示すとおり、天狗の技とされる。

人を拐って日本中を連れ回すこともある。

ビジュアルは乱暴に分けると大きく二種類。服を着た猛禽人間と、鳥の羽を生やした鼻の高い(長い)僧、である。前者は烏天狗、木の葉天狗などと呼ばれている時もある。後者は、慢心ゆえに成仏に至らなかった僧侶の化生したもの、と言う話もある。

鳥山石燕は、服も着ていない巨大な猛禽の姿で描いているので、自然の具現化として、天狗を捉えていたのだろう。確かに、空を自由に飛ぶ、と言う特徴は、多くの天狗に当てはまるものだ。

考えてみれば面白いな、と思うことがある。

天狗になる、とは現代では、自分の力量のに慢心することを指す。

自然から生まれた、猛禽類の天狗は、人の知恵と手足を手に入れ慢心する。

一方人間は、鳥の翼を背に生やし、慢心する。

どちらも「自分じゃない方の持ち物」を手に入れ、完全に近づいた、と慢心する。

両者の姿は、とても良く似ている。

もともとヒトだって自然の一部なのだから、空を飛んで天狗になる、ヒトの力を手に入れて天狗になると言う、この慢心は心得違いである。

だから天狗は、どちらの姿であっても神ではなく、「慢心を体現する妖怪」と言うことになるのだろう。

科学文明も、似たようなものなんだろう。

 

125 #二口女 #食わず女房

後頭部にも大きな口がある女性の怪。中でも「食わず女房」は山姥の類とされる。山姥すべてに後頭部の口があるわけではないから「二口山姥」とか言いそうなものだが、私は知らない。「女房」と言うくらいだから山姥なのに比較的若い(と言っても年増くらい?)ので、「二口女で良いじゃないか」となったのかも知れない。

 

「食わず女房」は「頭に口さえなかったら」ただのご飯泥棒の話だ。

「飯を食わない女房が欲しい」と、現代なら誤解を招きそうな発言をする男の所に「俺は飯を食わねえ」と言う女がやってきた。

村人たちは、そんな奴はいねぇ、と忠告したに違いないが、男は深く考えずに女を女房にする。

確かに男の前では一切食べない。しかし男は気付く。男が仕事に出る度に、米の蓄えが恐ろしい勢いで減る事に…。

仕事に行く振りをして屋根裏に潜み、見張る男。彼を驚かせたのは盗み食いの事実ではなく、一度に食べる量でもなく、彼女が食事の際に髪をほどき、その中に隠していた、後頭部の巨大な口を使うことだった。

後頭部が飯を頬張るために床に向き、代わり女房の顔が天井に向き、目が合った。

そんな話だ。

別の話では、疎ましがっていた継子を死なせてしまった母親が、事故で頭を割ってしまう。その傷口が口のようになり、モノを食い出し、最後にはしゃべるのだ。

「あやまれ、あやまれ」

こちらは「頭脳唇」と呼ばれている怪談だ。

 

「食わず女房」を絵にした。

二口女問題、と言うべきものがあり、「後の口を描くと、正面の顔が描けない」と言う障害が、絵描きの前に立ちはだかる。それを解決するデザインを思い付いた。

服の模様は「アケビ紋様」自分でデザインした。アケビの実が口のようだから、連想だ。

足元の植物は、ヨモギ。山姥の苦手な薬草らしい。先の男は、正体を出した女房に連れていかれそうになるが、ヨモギの藪に逃げ込み、難を逃れたと言う。

 

 

124 #姦姦蛇螺 かんかんだら

姦姦蛇螺(かんかんだら)は女性の化物で、腕は6本、下半身は大蛇である。森に封印されていて、人が迷い込むのを窺っている。
6本の木を、6本のしめ縄で括った六角形の空間が、彼女のテリトリーだ。空間の中心に箱が置かれ、中に壺と、楊枝のような棒が並べてある。この棒をうっかり触って、形を崩してしまったら、姦姦蛇螺が現れる…。

ネット怪談である。
数ある同種の話の中でも群を抜いてディテールが作り込まれている。あらすじは以下に紹介するが、ぜひオリジナルにも当たっていただきたい。
基本的には大体は忠実に描いた。

 正体は「大蛇と巫女」で、前述の棒を動かしてしまうと祟られるが、下半身を見なければ助かることもある。姦姦蛇螺は「棒を動かす」「全身を見る」の2つの条件が揃うと襲ってくる。実は「巫女」と「姦姦蛇螺」がおり、二人は同一の身体を共有するが別々の存在であり、「巫女」として現れた時には助かるかもしれない。

誕生に関わる嫌な話がある。大蛇が人を襲う村があり、巫女が一人退治に向かうが下半身を大蛇に呑まれる。すると村人たちは、何と「その巫女は喰わせるから村を襲うな」と、あんまりな提案をし、巫女の腕を切り落とし、そのまま呑み込ませる。この作戦は巫女の家の者がはなから画策していた。あんまりにも程がある。
大蛇は姿を消し、平穏を取り戻したはずの村は次々と人が死んでいく。巫女の家の者も6人死に、みな方腕がなくなっていたという。村全体でも18人くらい死んだようで、コレでは大蛇の被害が祟りに変わっただけである。生き残った村人はわずか4人であった。
もうどうしようもない。
人間のたたりが一番怖い。

話のあちこちに、実は答えが準備されてそうな、不明確な部分が配置されていて、良いマグガフィンになっており、大勢が解釈を楽しんでいる。

私もまた、その一人だ。
この絵にも幾つかの解釈を加えている。
下半身を、引いては蛇との「接合部分」を見られると逆鱗に触れるらしい。
ので、袴でくるんで注連縄で締めておいた。

何て書いていたら、ネットのイラストの中にも同じ発想の方が居た。私は自分が思うほど、発想が豊かではないらしい…。
中がどうなっているのか、の考えも同じなのか?話でみたい気もする。

とはいえ、事件の真相を知っているのは、姦姦蛇螺当人だけである。

個人的には、跡継ぎではないのに強力な力を持ってしまった巫女が、お家騒動に巻き込まれるなか、半ば必然的に、途中からは自らの意思で積極的に、妖怪へと進化してしまったような…モノに思える。だから、大蛇の方が彼女に喰われているのだ。

 

バイオハザード(ゲームじゃなくて)のマークは六本腕だから、描き込んだ。

彼岸花は、1つの茎に花が六つ、花には花弁と雄しべが六つずつ付いている物が多い。描かずにはいられなかった。

 

 

123 #おりたたみ入道

水木しげる氏が、漫画「ゲゲゲの鬼太郎」に登場させた妖怪。氏の創作であると言われている。しかし実際、誰かの創作ではない妖怪は少ない。下手をしたら全ての妖怪は人に名付けられた時から誕生した、と言う点では、創作と言える。ライオン等のように、人が名付ける前から「それは居た」と、言える妖怪はどのくらい居るだろう?

かつて、鳥山石燕と言う画家は、自らの著作で沢山の妖怪を創作した。民俗学の見地からは伝承とは分けて考えるべきだろうが、妖怪を哲学として捉えるなら、それらは今では立派に妖怪として認識されている。毎年のように新たに出版される妖怪図鑑にも、普通に収録されている。

妖怪は、誰が産み出したかはあまり重要ではない。時代が受け入れたかどうかが、重要なのだと思う。

前の水木氏は、多くの妖怪を初めて描くことによって、姿を与えたとされ、評価されている。であれば、姿しかない妖怪に「物語」を与えることも、許されるべきではないか。いや既に許されているのだ。ぬらりひょんやおとろしなど。アマビエに至っては、歴史が改編までされかかっている。しかし、噂が事実を凌駕してしまう事も今に始まったことではない。そもそも「当時の文献」がどのくらい正しいのかだって判らない。

おりたたみ入道を、勝手に伝説にしてみよう。

よく伝わる話は大体こんなものだ。

巨大な僧形のものが、家の奥の土蔵にすうっと消えていくのだ。追って中に入っても誰もいない。よく見ると、小さなつづらがある、まさかとは思ったが、試しに開けてみると、折り畳まれた坊主が入っていて、ニヤリと笑った。

平安時代藤原氏の策略で失脚し、生きながら屈葬にされた、僧の化けたものだと言う。

折り紙で作った良寛さんに命が宿って動き出したと言う江戸時代の話もある。毬に見立てた紙風船を撞いている。やはり土蔵に逃げ込み、つづらの中で発見される。この場合は紙風船も折り畳まれて入っているという。

なんて話は今私が考えたが、心有る(?)かたが広めてくだされば、またはもっとふさわしい物語を産み出して頂ければ幸いである。

122 #飛縁魔 八百屋お七乃場合

八百屋お七は実在の女性である。

江戸本郷の八百屋の娘。恋心を抱いた相手との再会を夢見て、放火事件を起こし火刑に処されたとか。後に井原西鶴の『好色五人女』の作中で紹介され、有名になった。

 「飛縁魔」は仏教用語、女の色香で身を滅ぼす愚かさを諭す言葉とか。美しい女性でありながら内面は凶悪で、迷わされた男は命を失う。中国の妲己や褒姒といった王の妃たちが、飛縁魔だったとか。

 ひのえんま、は「火の閻魔(裁判長)」であり、「飛ぶ魔縁」でもあり、天魔やマーラを意識される。また丙午(ひのえうま)生まれの八百屋お七が天和の大火を起こしたことから、「飛び火からの大火事、「飛炎魔」と言う話もある。

話は全然変わるが、ロイコクロリディウムと言う、インパクトの大きい寄生虫が居る。 カタツムリの触角に寄生して(触角はパンパンに腫れ上がる)イモムシのように動き回り、脳も支配されたカタツムリは、高い場所、目立つ場所に這っていく。鳥がこれを見つけて捕食すると鳥の体内で産卵、卵は糞と共に外界へ出され、その糞をカタツムリが取り込んで…。と、いうサイクルで生きている。

 錦絵に描かれた八百屋お七は、梯子に登り、自らが起こした火災を眺めている。気になる男に見つけて欲しくて、八百屋の身分で手に入る、一番良い着物を来て…親の持ち物を借用したかも知れない(錦絵の服は、歌舞伎を意識してか、豪華すぎるように思う)…街に飛び出し、なるべく人目につくように火事現場に居たのではないだろうか。今で言うところの「白馬の騎士」が自分を連れ去ってくれることを夢見て…。そのイメージが、鳥に連れ去られる為に、派手な姿で目立つ行動をする、レイコクロリディウムと重なった。

  思うにひのえんま、とは、悪意の怪というより、異性に執着する人の性、本能のようなモノではなかったか。本能が理性に勝るとき、人は無表情になるように思う。だから表情は抑えた。