古今妖怪図鑑

妖怪しか描かず、妖怪を哲学する、妖怪画家のブログ。妖怪しか描きませんし、妖怪の事しか書きません。

121 #木魚達磨

達磨のようななりの、木魚の姿で描かれている妖怪。初めて絵にした(紹介した)のは、おそらく鳥山石燕。彼の解説によると、仏具の妖怪であるとのこと

  木魚とは、魚の目は開いたままであることから、修行僧への不眠不休を説くものとされ、いっぽう達磨=達磨大師は、眠らずに9年間修行したと伝えられていることから、「眠らない」モノ同士を繋げた石燕の創作とされる。

 昨今のイラスト等、創作物の「木魚達磨」はどうもデザインが「達磨寄り」なものばかりなので、木魚を追求した姿を考案した。調べて知ったが、木魚の魚は二匹だった。てっきり穴の空いた部分が「魚の口」だと思っていたのだが。竜のような魚が向かい合って、木魚の飾り部分を形成している。それが簡略化、様式化して今の形になったのだろうか。まだ調べきってはいない。

 寝ずに頑張る達磨様は、今なら例えば、受験生のイメージとも繋がる。合格したら目玉を入れる、あの達磨だ。大願を成就させる為に不眠不休に身を晒す、そのような大願への強迫観念の妖怪だと見顕した。高度経済期には大勢のサラリーマン達もこの妖怪にとり憑かれていて、「仕事に夢中で眠くはならない」と言いながら残業を繰り返し、最後には過労死してしまった。医者は達磨人形のように、手も足も出せなかった。

  一緒に描いた蓮は、水生植物なので魚と相性がよい。また、仏様は蓮の花の上に座ることが多く、達磨のイメージとも相性がよい。最近散歩先でよく見かけたので、良いタイミングだった。

  

 

120 #滝夜叉姫

妖怪ではなく妖術使い。

ウィキペディアを要約すると、

 

江戸時代の読本(山東京伝)に登場する。福島県に墓碑があり『滝夜叉姫が将門の死後に再興を図ったが失敗し出家した』とある。

平安時代、父将門が討たれ、生き残った五月姫は丑の刻参りを繰り返すようになった。満願の日、荒御霊により、またはガマの精霊「肉芝仙」から妖力を授けられ、滝夜叉姫となった

滝夜叉姫は朝廷転覆の反乱を起こそうとするが、朝廷が先手をうち、滝夜叉姫成敗の勅命を下す。相馬の城に追い詰められた滝夜叉姫は数百の骸骨を呼び出し、激闘の末に敗れる。その場で死んだとも、尼寺で生涯をすごしたとも言われる

多くの人が見て見ぬふりをしているが、あの、巨大な骸骨(水木しげるが「がしゃどくろ」にしてしまったイメージ)ではないのである。そこを絵にしてみたかった。流石に数百の髑髏は掻かなかったたが。

あと、ガマの妖術も使うらしいので、描いた。

創作(又は魔改造)されたのは江戸時代だが、平安時代の人物だ。歌舞伎役者のような服を着せるわけにも行かない。丑の刻参りの衣装に、髑髏の紋様の上着を着せた。顔は能面を意識した。

有名な錦絵の滝夜叉姫は、恐らく呪文のための巻物を広げて持っている。描くことにしたが、中の文字をどうしたものか、悩んだ。骸骨を生む呪文など、調べようもない。

そもそも仙人から教わった妖術なんて、何語で書いてあるのかも知らない。こちらは民俗学はド素人である。だから、この絵に関しては勝手に話を作ることにした。はっきり言う。話を作ったのだ。

持っているのは菅原道真漢詩である。滝夜叉姫から見て約30年前に太宰府で不遇の死を迎え、約10年前に怨霊と化して宮中に雷を落とした人物。その彼が左遷されたのち、同じ様にして陸奥で死んだ友人を思い、その無念をしたためた漢詩である。滝夜叉姫が愛読するようになったとしても不思議はない。「骸骨」の文字も読み込まれている。だから、滝夜叉姫がお気に入りの漢詩に呪をかけて、実体にしたんなら面白かろう、と。

とんだ山東京伝であった。

119 #清姫、または蛇身

白河より熊野に参詣に来た僧は大変な美形であった。名を安珍という。豪族の娘、清姫は宿を乞いに来た安珍に一目惚れし、その晩誘惑する。困惑した安珍は、「必ず帰りには立ち寄る」と嘘を伝えて去った。

嘘に気付いた清姫安珍を追う。安珍は神仏に助けを求めながら日高川を渡る。清姫は河に身を投じ、蛇体となって泳ぎ始め、道成寺安珍に追い付く。安珍は住僧に下ろして貰った吊り鐘の中に隠るが、姫は鐘に巻き付き、焔を吐いて安珍を焼き殺す。やがて清姫も入水自殺する。

蛇に転生した二人は道成寺の僧のもとに現れ、法華経の功徳により成仏。実はこの二人はそれぞれ熊野権現と観音様の化身であった。法華経は有り難いな、と言う話は有名。

日本は今でも、イケメンに冷淡な風潮があるが、一方的に被害者となってしまった安珍が気の毒な気もする。

 

世の中には沢山の、清姫の絵がある。おしなべて般若とドラゴンを足したような、かなり醜い姿であるが、清姫の悲痛な思慕の情を描いた絵は見たことがなかった。

先日、東京の近代美術館で、重要文化財清姫図を見た。村上華岳の作だ。コレだと思い、同じような構図で描いた。その絵では清姫は両目を閉じている。「恋は盲目」の寓意であるらしい。全く蛇にはなっておらず、髪の先が蛇の舌のように二股に分かれている。

あまりに忠実に描くと模写になってしまうので、描きたいものは我慢せず描いた。

蛇の目は、怪奇映画の蛇女から。

足元も蛇にした。

服の紋様に青海波、鱗紋様。

掴んでいるのは、恐らく安珍から剥ぎ取ったのであろう、袈裟。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の裏返し。一晩経ったが、袈裟も愛しい。

蒲の穂で水辺を表現した。今から水に入り、完全な蛇体となるのであろうか。

 

118 #朱の盆

 

会津若松に伝わる妖怪。

いくつかの話が残るが、共通点は
真っ赤な顔をした鬼。という所か。

戊辰戦争会津若松では、まさに血戦が行われ、沢山の血が流れたと聞かされた。
家臣の家族の自決、日新館、白虎隊、覆水盆に帰らず。

今や観光地となった鶴ケ城、家老宅であった武家屋敷、山に移築された日新館には、精一杯美化された、悲しい歴史が飾られている。
  明治維新謳歌する傍らでも、まだ収まらない怒りが残っている。町中に戊辰戦争を美化する「無念の記念碑」が紹介されている。「ならぬものは、ならぬものです」街のスローガンも、日新館の思想からとっている。

そんな、会津若松を象徴するかのような妖怪。

羽織の流水紋は、移り行く世界を表す紋様だ。


変わらないのは磐梯山のみ。

そんな考えを一枚にまとめた。

117 #以津真天 いつまで

1334年、建武の親政が始まった年、疫病が広く興った。政治的な混乱の中、遺体は長く放置された。すると「いつまでも、いつまでも…」と鳴く怪鳥が現れた。これを射落とすと、顔は人のようで曲がった嘴には鋸のような歯が並び、体は蛇体、で、両足の爪は剣のように鋭く、翼長は5メートルあったという。これは「太平記」で紹介された話だが、江戸時代に鳥山石燕がこの怪鳥を絵にし、その鳴き声より「以津真天=いつまで」と名付けた。

亡くなった民の供養の替わりに、生じた化け物を射落として解決するお上のやり方は、現代に通じるものを感じる。

 放置されたものがあると、「いつまで」と哭きながら辺りを飛び回る。そして、今の日本なら「放置される問題」には事欠かない。世の中は便利になる一方で、日に日に複雑になっていく。何かのバグが生じても、即時解決とはなかなか行かない問題も増えた。

 東日本大震災から12年。

1300万袋の汚染土は、問題の複雑さゆえ、未だ処分方も決まらぬまま、「一時的に」保管されたままだ。「いつまで」の声も、上がる度に打ち落とされているようだ。しかし打ち落とされる度、少し大きな「いつまで」が復活する。…何年先になるのか、その声が無視できない程に大きく成長したとき、状況は動くのだろう。

「いつまでも」と言う訳にはいかない。

 

尻尾の輪っかにマークを隠した。

天体は天王星。英語名はウラヌスだ。ある鉱物名を起想する筈である。

116 #チクリ

昭和時代の「妖怪尽くし絵巻」に描かれた妖怪。芸者の首にサソリの体を持つ。作者の解説はないが、非常に寓意性に富んだデザインである。

全然関係は無いが、「さそり座の女」と言う歌があった。女性の、惚れた男に対する執念のような感情を歌にしたものだが、歌っていた美川憲一はまだ元気だろうか。調べると現在76歳らしい。

チクリ、とは。まずは擬態語。先の鋭いものが皮膚に浅く刺さるときの感触を言葉にしたものであり、そこから転じて批判や皮肉など、聞くものに軽い精神的ダメージを与える発言をする際にも用いられる。なお、女性からのチクリは男性には発した本人が思う以上にこたえる。

以上の意味からの派生として、告げ口することを「チクる」と言う。私の故郷の関西の田舎言葉かと思ったらそうではなく、全国枠の表現だったのは以外だった。普段から何でも先生や親に告げ口する人物のことを「チクリ」と呼んだ。

以上より、チクリ、とは人のうなじの辺りに張り付いていて、耳元であれこれ告げ口をする小さな妖怪なのだろう。秘密の共有による特別感で人を酔わせるところは芸者のようだ、と言う寓意だろうか。

絵の話。刺を増やしてより「チクチク」させた。両脇の果実はサポディラ。熱帯の果物だ。此木の樹液はかつてはチューインガムの材料に使われていた。素材の名をチクルと言う。駄洒落である。あと「チク○」をぽろりさせたのも駄洒落である。妖怪で遊んでいる。江戸人のように。真面目に追求する気概がない。こういう事をしているから、日が当たらないのだろうが。

世間からの無言のチクリが私を襲う。

 

115 #朧車

昔、賀茂の大路を、朧月夜に車の軋る音を立てるものが居た。出て見てみると異形のモノだった。車争いの遺恨であろうか。とは、これを最初に絵にしたと思われる鳥山石燕の言葉。

受験シーズンも大詰めである。

学生は名門の席を取り合っている。ある桜は咲き、ある桜は散る。「サクラサク」は、電報用に作られた言葉だと聞いた。「ウカル」にしなかったあたり、日本の心を感じる。

人は場所を取り合う生き物である。当然勝ち負けがある。負けるところには遺恨がのこる。平安時代には牛車で、花見や祭りの場所取りをしたらしい。今は新入社員にやらせるところ(流石に今は無いだろうか)、牛車にさせるあたりが何とも貴族であるが、それゆえに所有者の見ていない内に、他人が勝手に車を動かしてしまうトラブルもあったようだ。これ則ち「車争い」である。

現代ならまずは花見、受験、初売りの行列に潜んでいそうな妖怪だ。せめて花見の争いくらいは、桜を愛でながらのどかにやって頂きたい。

そんな絵。