古今妖怪図鑑

妖怪しか描かず、妖怪を哲学する、妖怪画家のブログ。妖怪しか描きませんし、妖怪の事しか書きません。

133 #於菊虫

有名な国民の怪談、「番町皿屋敷」のスピンオフのような妖怪。

実在する、ジャコウアゲハの蛹がそうである、と言われている。

日本中に伝わる「お菊伝説」。家宝の皿を割ってしまった女中のお菊は、手打ちにあって屋敷の井戸に投げ込まれる。全国に似た話があり、ここに至るまでは色々なバリエーションがあるが、井戸に投げ込まれる所で話が揃う。

後は井戸からお菊の霊が出現し、皿を数えては泣き崩れる、と言う有名な場面が毎晩の如くに繰り返される。

お菊伝説は、江戸の番町皿屋敷、姫路の播州皿屋敷を筆頭に、Wikipediaによると、(以下引用)…北は岩手県滝沢市江刺市、南は鹿児島県南さつま市まで…そのほか、群馬県甘楽郡の2町1村、滋賀県彦根市島根県松江市兵庫県尼崎市高知県幡多郡の2町1村、福岡県嘉麻市宮城県亘理郡長崎県五島列島福江島などに伝わっている。

割れ残った皿の数(17件×9枚=153枚)で15名ほどのお菊さんが成仏できる計算だ。

既に「お菊」は固有名詞ではなく、妖怪としての普通名詞になっている。鳥山石燕は、それを意識したのか、この怪異をまとめて「皿数え」と呼んでいる。

さて、お菊虫の話である。

尼崎や姫路のお菊さんの話に登場し、人が縄で縛られたような奇怪な姿をしているが、ジャコウアゲハに限らず、蝶の蛹はだいたいそんな姿をしている。このお菊虫が、お菊の遺骸が放り込まれた井戸に、たくさん貼り付いていたと言う。

ヘイケガニと似たところがある。

ジャコウアゲハの蛹は、写真で見てもなかなか迫力のあるものだ。縛られた人の姿と言うよりは、幽霊そのものに見え、伝説になりそうな色と形をしている。しかも纏まった数で群れてサナギになるので、見つけてしまったら声くらい出てしまうかもしれない。

姫路城ではかつて、蝶のサナギ(ジャコウアゲハに限らなかったらしい)の干物を「お菊虫」として土産に売っていたらしい。妖怪すらもお土産に。関西人の商魂は凄まじい。

 

欠けた月は割れた皿の隠喩。

皿の絵は適当に描いてしまった。

ジャコウアゲハに寄せて描いているのは、お分かり頂けると思う。

 

 

 

132 #高女

 

鳥山石燕画図百鬼夜行シリーズに姿がある妖怪。これといった解説もなく、結び付くような伝承も少ない。遊廓に関する寓意画であるとする分析もあるが、この説を採ると沢山の妖怪が遊廓に絡んでいて、フロイトじゃないんだから、と正直思う。戦後には、何名かの妖怪図鑑作家の手によって「醜い娘が成ったものであり、嫉妬深く、体を伸ばして遊廓の二階などを覗く」と言う話が作られたようだ。

せっかくだから、私も先人に習い、この妖怪を今風に「見顕す」ことにしよう。

見たまんま、高みより見下ろす=マウントを取りたがる妖怪である。自分の属する共同体で、マウントを取ることに執心する人には、この妖怪が憑いていると言う。

高年収のハイスペックなパートナーと結婚し、ブランド品を身に纏い、その事を職場の周囲にアピールすることに余念がない。そうして精神的な高みから周囲を見下す事に快感を感じる。彼女にとっては身の回りの全てが自慢とその承認のためにある。自分よりも上位にある人間を見つけると、更に背伸びをし、借金をしてでも自分の価値を上げにいく。それでも届かないときは…。相手の方を引きずり落としにかかる。

程度のさはあれ、しばしば見かけるタイプ。間違いなく現代妖怪だ。

富士山を見下ろすように描いた。

着ているものは紺の絞り染め。高級品だ。

燕も足元に及ばない。

でも、さらに頭上には桜の木があり、花びらを降らせている事に、彼女は気付かない。

そんな絵である。

 

因みに、ふじ、さくら、つばめは、歴代の特急列車の名前でもある。遊びです。

131 #垢舐め

江戸時代元禄期辺りから描かれたり語られたりしたらしい妖怪。姿に多少の違いはあるが、風呂場に現れ、垢を舐めて食べる。

率直に言って、気持ち悪い。

江戸の町は享保期には百万人規模だった。公衆衛生は不十分で、大通りは下水の匂いが酷かった、なんて話も聞く。家に風呂がない町人も多く、したがって銭湯を利用していた。なかには汚い風呂屋もあっただろう。そう言う時代背景のなかで必然的に誕生した妖怪なのだろう。「あそこの銭湯は、垢舐めでも出そうなくらいだ」などと言う風に。

今だって、不潔な場所には「いろんな菌が発生するから危険だ」などと言われ、我々は、その目に見えない菌に怯え、避けようとする。その感覚とこの妖怪は無縁ではない。

垢は、一見清潔に見える浴室の、足元、物陰など目につかない場所に溜まっていくものだ。人が使う以上、完全に清潔な空間はあり得ない。垢は、言うなれば必ず存在するバグのようなものだ。古今東西を問わない。

今までも妖怪の絵に、時々現代の意匠を加えてきた。今にも生きる妖怪画を描きたいからだ。汚れた浴室の気持ち悪さはそっくり現代に持ってこれる、と思って描いた絵である。

 

 

130 #死神

桃仙人夜話「絵本百物語」に紹介される怪。

死んだ者の悪念が死んだ場所などに留まり、生者を引っ張り、同じような死に方をさせる。

つまり現在でもよくある怪談の先駆け的な存在。縊鬼や七人ミサキと同類の怪異だ。

「絵本百物語」の挿絵では、軒の下に人を誘っているような姿で描かれている。「軒の下で首を吊る」イメージを意識していると思われる。

 

スポーツ競技の世界では、世界新記録が出ると、今までの記録を上回る結果を出す選手が急に増えると言う。人間、誰かが何かを為すと、「それが出来る」ことを知った他者は、それだけでその行為に対するプレッシャーが弱まり、実行率が上がり、同じように成功する者が増えるそうだ。

犯罪や自殺に於いても同様の事実が認められる。

何度も事件の起きる物件がある。

話題性の有る事件には、模倣犯が必ず現れる。

日本各地に自殺の名所がある。

死神の仕業かどうかは置いておいて、「死神現象」は、世界の法則の一つであるようだ。

死神、と言えば落語の世界でも有名だ。命を火の灯ったローソクで表現する世界観はとても面白い。画面をローソクで埋め尽くすアイデアもあったが、あまり描き込みたくない性格なので、「一、二、三、死」と洒落にした。

 

129 #川獺 かわうそ

子供の姿に化けて、酒を買いに来る妖怪。

今なら即NGである。現在は、逆に、子供が大人のふりをして酒を買いに来る時代だ。

 

舌が短く、言葉は上手に話せない。

「俺だ」と言えずに「あわや」とか「うわや」と言う。「どこから来た」と聞かれると、「かわい」と答えると言う。

以上の事は、水木しげるの著作で読んだ。

 

思うに、かわうそ自身は、普通の人間に化けたつもりで、ただ、狸や狐ほどには化け方が上手くなかったため、図らずも子供サイズになってしまった、ということかもしれない。自分が上手く化けられていない自覚がない。その不自然さがこの妖怪の怪しさなのかもしれない。AI画像の、不気味の谷にも通じる怖さだ。

彼は今日も酒を買いに来る。昨日はうまく行ったから、今日も売って貰えるぞ。と、疑いも持たずにやって来る。

しかし、柳の下に二匹目の泥鰌は居ないかもしれない。

と言う絵である。

 

 

128 #蛇骨婆

鳥山石燕が紹介していることで知られる妖怪の一つ。解説に「中国大陸の一地方に、右の手に青蛇、左の手に赤蛇を持つ人が居ると言うが、蛇骨婆はこの国の人だろうか。或いは、蛇塚の蛇五右衛門(じゃごえもん)と云う者の妻で、人呼んで「蛇五婆(じゃごばあ)」が訛った名前だと云う」と書いてあり…。

あまり説明にもなっていない。

青蛇、赤蛇を持ってるのは「中国の伝説の国の人」であって、蛇骨婆ではない。「同じだろうか」と言われているだけだ。

蛇五右衛門が何者なのかも明らかではない。

蛇骨婆が、何をする存在なのか、全く判らない。読み取れない。石燕妖怪あるあるで、もう慣れてしまったが、地方に伝説があるわけでもない。

 

蛇は、幾つかの怪談で「金銭欲の具現化」として登場する。元来「執念」を象徴する生き物だからであろうか。死んでもなお蛇と化して、生前貯めた金を守るという話が複数有る。金運の象徴という顔もあり、脱け殻を財布に入れるとお金がたまるとは今でも言われる…私は嫌だが。(代わりに、ガマの剥製を加工したガマ口を持っている。中国では三本足のガマが金運の象徴だ。これも、使っていないが)

昔話には良くケチな資産家の老人が登場する。年を取り、体力が落ち、頭もぼやけ、自分一人で出来る事の限界がどんどん狭くなる。そうなると頼りになるのはもはや金、と云う悲しい悟りがその裏にはある。そして彼らはがめつくなる。どんなに脳が老化しても「金が手元にあればなんとかなる」その執念だけが強力に生き続ける。思考も感情もぼやけて行き、ただ純化した執念が、遂に蛇になる。

そんな妖怪だったら、ケチを強調した絵にしてみよう、となった。(私の話)

石燕のイメージを下敷きに、山姥のようなボロボロのファッションはやめて、装いは裕福に改めた。でも髪はワイルド。かんざしはあるが、勿体ないので着けずに隠しているのだ。

わらじなど、減るものは履かない。裸足である。

爪に灯をともして、タバコを呑んでいる。良く考えたらタバコは浪費だが、金貸し(または商売人のボス)的な印象を着けたくて、咥えさせた。煙を蛇の舌に見立てた。

蛇五右衛門の妻かもしれないので、歯を染めた。

羽織の襟は「鱗紋」

着物の柄は、蛇の目に見立てた、銭の紋様。

背後には蛇塚を描き、銭の花を咲かせた。

むかし、歌手の戸川純が「金貸しババアはキンキラキン」みたいな歌を歌っていたな、と思い出しながら描いた。

 

127 #鍋島猫、または#グリマルキン

 

猫はどこにでも入り込む。そして、最初からそこが、自分の居場所であったかのように振る舞う。物語の中にあってもだ。

江戸時代成立期。

佐賀の国では龍造寺家が衰えていた。元家臣の鍋島家、隣国の有馬家の方が幕府からの信任も厚く、龍造寺家は名目上の藩主でありながら、幕府からは既に無視されていた。状況に絶望した龍造寺の一族は、あるものは狂い死にし、又あるものは病死したと言う。その後、鍋島家に何かあると、「龍造寺の呪い」と言われるようになった。龍造寺から実権を奪った鍋島直茂は81歳まで長生きしたが、耳に出来た腫瘍で亡くなったお陰で、呪いだと言われた。

幕末期には、これを題材にした怪談も姿を表した。こんな話だ。

2代藩主鍋島光茂は龍造寺又七郎と囲碁で遊んでいたが、又七郎が名人であったため連敗、激昂し又七郎を切り殺してしまう。知らせを受けた又七郎の母は恨み節を飼猫に語り自刃 。猫は、流れる老婆の血をなめ尽くすと、鍋島家に侵入。光茂の愛妾をくい殺し、彼女に化けて夜ごとに光茂を苦しめた…。

いつのまにか、話の中に猫が居る。

猫はどこから遣ってきたのか。

そもそも日本には、血を吸う妖怪は殆ど居ないようだ。猫が血を吸って人に化けるなんて日本の怪談でも珍しい。ひきがえるか、鼈が血を吸う話はあったが、血を吸って魔力を持ち、人に化る話は…多分、ない。

以下は勝手な妄想です。

鍋島家・龍造寺家のお家騒動は、江戸の初期、鎖国の始まる前。長崎では南蛮貿易の全盛期。そしてヨーロッパは…魔女裁判の全盛期。

長崎を中心に、九州には東南アジア経由でヨーロッパの物や文化が次々と上陸していた。例えば「尾曲り猫」。インドネシアが原産と言われる猫で、宣教師が日本に持ち込んだ。今では長崎県の猫の八割が尾曲り猫であるらしい。

そんな猫の一匹が、たまたま魔女の買っていた猫、または魔女そのもので、キリシタン大名の有馬氏を嫌い、佐賀の龍造寺家の飼い猫となり、飼い主の無念を晴らしに行く…。

そんな鍋島猫も、有って良いかもしれない。

 

魔女の飼い猫、魔女の化けた猫を西洋では

「グリマルキン」と言う。

魔女は九回まで猫に化けることが出来、化けた回数だけ尾が増えて行くと言う。

 

最初の絵の、背後をチェスにしたのは、画面にヨーロッパの雰囲気を出したく、囲碁と並ぶボードゲームと言えばチェスだった、事と、チェスのルール、形が今と変わらなくなったのも15世紀だったのと、ビショップ、が実は宣教師と言う意味を持つことと…色々です。

 

二つ目の絵は構図を同じくし、西洋の魔女は猫に化ける度に尾を増やすと言うので尾の数を増やし、鍋島家の家紋、「鍋島杏葉」を頑張って描き、家紋に因んで杏の盆栽を加えました。